| 1876年8月8日 |
イリノイ州のデイクソンに生れる。
洗錬された教養の高い家柄だったが、けっして裕福ではなかった。
父は33年間デイクソン高等學校の校長を勤めあげた人物で、厳格であり誰からも深く尊敬された教育界の指導者だった。
彼の母はすべての人々から深く愛せられ尊敬された。彼女は働らき者で、先妻の息子と自分の子供を育てながら家庭をきり廻していた。時間をみつけては種々の雑誌に寄稿し、その原稿料で家族が必要とする読み物を買うという風であった。
スミス氏は五歳で學校へ通い始め、はにかみ屋で、不器用で高等學校を卒業するまで成績はあまり芳しいものではなかった。
彼は家では農場を手伝わなければならず、他の子供達とスポーツをしたりゲームをしたりする時間もなかったし、またそういう気持ちにもなかつたようである。
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| 1892年 |
16歳、高校卒業 卒業後2年程、彼は農場で働き、ともかくその經營をやつてのけ、近く州立大学の農科に入学。 |
| 1894年の夏 |
農場で働く計画を断念。
スミス氏の生涯を大きく転換させる事件がおこる。
或日、彼が一頭の馬を世話をしていると、突然他の二匹の馬が走り出し、スミスさんの頭皮と片方の耳が大きくさけ、左手の靱帶損傷する事故だった。幸い、頭皮と耳は元通りになったが、左手は、もはや生涯重勞働に堪えるようには回復しなかった……。 |
| 1895年 |
リバサイド・スクールの教師となる。
両親はスミス氏と一緒に暮らしたいと考え、デイクソンの近くの小さい一教室だけの学校(リバサイド・スクール。スクール・バスの制度が発達した今日では、こういう不完全な学校はほとんどなくなったが、極最近まで至るところにあった)に、職を見つけた。
この学校には18〜20人の様々な年齢の子供達がいて、中には相当年配の女の子や、十六歳にもなる荒つぽい少年等がたが、大概は取扱い易い子供達で、スミス氏の終生の友人となつたのである。 |
| 1896年 |
田舎の学校へ移る。
給料は高くはなったが、あまり楽しいとは云えない田舎の学校へ移る。大学へ入学する計画をたて、そのために貯金するお金が必要となつたからである。 |
| 1896年9月 |
イリノイ州立大学に入学。同時に大学Y・M・C・Aに加入。
大学二年生の時、父親が重病にかかり、母親もまた病気だったので、家へ呼び戻され、高等學校の代理校長となった。 |
| 1898年夏 |
父親永眠。農場は閉鎖。スミス氏は一学期を休んだだけで、大学へ復帰。 |
| 1899年春 |
Y・M・C・Aの会計に選任。 |
| 1899年夏 |
ゼネバ湖(北米、イリノイ州とウイスコンシン州の境にある湖)のY・M・C・A夏期キャンプに出席。Y・M・C・A有数の指導者となった。 |
| 1899年12月 |
クリスマスに母親永眠。 |
| 1900年4月 |
大学Y・M・C・A会長に選任される。
この年、Y・M・C・Aと連合で種々の会合が持たれたが当時のY・W・C・Aの会長は他ならぬインネッド・ドレーパー嬢であり、スミス氏は未来の妻とめぐり合ったのである。
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| 1900年夏 |
決意表明。 ゼネバ湖に於ける第二回Y・M・C・Aの夏期キャンプで、海外伝導事業に生涯を捧げると云う固い決心を表明。 |
| 1901年6月 |
大学卒業。 |
| 1901年9月 |
大学教授となる。
イリノイ大学教授陣に加わり、数学の教師として、100〜120人の一年生に代数・三角・解析等を教えた。 |
| 1902年2月2日 |
インネッド・ドレーパー嬢と正式に婚約。
彼女は1902年の6月来日。 |
| 1902年秋 |
「リバサイド農場」売却。
大学の学費のためになされた借金を返済。
アメリカ聖公會ミッションのマキム主教に手紙を書き、日本での伝導者としての可能性を問い合わせ、Y・M・C・Aが官立学校の教師を募集していることを知る。 |
1903年2月27日
明治36年 |
28歳。イリノイ大学の地位を棄て日本へ向つて出帆。信濃丸で横浜に到着。 |
| 1903年4月10日 |
広島高等師範学校へ英語教授として赴任。 |
| 1903年10月20日 |
横浜でインネッド・ドレーパー嬢と結婚。
スミス氏は広島高等師範学校の英語教師として、学生が最も必要としていることは何であるかを見出そうとし、またその必要を満たすために最善の努力を傾けた。雑誌「英語教師の友」を発行、これは官公立学校その他学校の英語教師のための雑誌であった。
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| 1908年12月 |
第一回の休暇。 帰国してイリノイ大學で研究を続ける。 |
| 1909年9月、 |
広島へ帰ってくる。 スミス夫人も附屬中学で英語を教える始める。
スミス氏は、「西洋物語」という学生用の英作文の書物を著す。日本に於ける最善の英語教師の一人として数えられるようになる。
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| 1911年4月10日 |
東京築地教會の禮拜に出席。在日アメリカ聖公會ミッションに加わることを決心。
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1912年4月1日
大正元年
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在日アメリカ・ミッションの京都教區の一員となる。 |
| 1912年4月 |
三重県津市に赴任。 |
| 1913年 |
教會附屬の夜學校の責任者となり、夫人は幼稚園の園長となった。
福井・金沢・京都などで布教活動 |
以上、「書籍スミス先生の思い出」より抜粋
スミスさんの傳記 ミセス・インネッド・スミス |
1925年
昭和元年 |
彦根高商英語教師を務めながら布教活動や文化活動に従事。 |
1931年
昭和6年 |
両親の慰霊のため、キリスト教の普遍的精神と彦根の風土と日本の精神を調和させた礼拝堂の建築を祈願。日米の多くの善意に支えられ実行に移した。 |
1939年
昭和14年 |
健康悪化のためアメリカへ帰国。 |
1945年
昭和20年 |
オハイオ州で死去。
彦根を愛したスミス氏の遺骨と遺髪は彦根の教会に納められている。 |